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第2話 普通の大学へ行きたい内親王と、絶対に許可したくない父

last update publish date: 2026-09-13 08:39:41

第2話 普通の大学へ行きたい内親王と、絶対に許可したくない父

 結月が父の書斎で「一般の学生として大学へ通いたい」と直訴した翌朝、瑞穂宮邸では、本人の知らないところで少々面倒な会議が始まっていた。

 少々、というのは結月から見た場合の話である。

 警護担当者からすれば胃が痛くなる話であり、宮家の事務を預かる職員からすれば「殿下はなぜ今になってそんな難題を」と天を仰ぎたくなる話であり、父である雅久親王にとっては、娘の成長を喜ぶべきなのか頭を抱えるべきなのか判断のつかない話だった。

「もう一度確認します」

 会議室の長机の向こうで、警護責任者の榊原が眼鏡を外した。

 五十歳を少し過ぎた、見るからに生真面目な男である。日頃は表情を崩すことが少ないが、今朝に限っては額に深い皺が寄っていた。

「結月内親王殿下は、春から一般学生と同様の形で大学へ通学されることをご希望なのですね」

「ああ」

 雅久は短く答えた。

「通学だけでしょうか」

「本人はそういう意味で言っていないだろうな」

「と、おっしゃいますと」

「友人を作りたいそうだ」

 榊原が黙った。

「食事にも行きたいらしい」

 榊原はまだ黙っている。

「大学祭にも参加したいと言っていた」

「……なるほど」

「アルバイトにも興味があるようだ」

 そこで榊原は眼鏡をかけ直した。

 動作は静かだったが、「なるほど」では済まないという気配だけは会議室いっぱいに広がった。

「殿下」

「言いたいことは分かっている」

「まだ申し上げておりません」

「顔に書いてある」

「これは生まれつきの顔です」

「昔からおまえはそういう言い方をするな」

「殿下こそ、昔から無茶なご相談をなさいます」

 長年の付き合いがなければ成立しない会話だった。

 雅久は椅子にもたれ、腕を組んだ。

「私が言い出したわけではない」

「御息女から頼まれたからといって、そのまま我々へ投げるのはいかがなものかと」

「まだ投げていない。検討しろと言っているだけだ」

「検討した結果、危険です」

「早いな」

「三秒で分かります」

 榊原が即答した。

「講義へ出席するだけなら、まだ方法を考えられます。大学側と連携し、警備区域や移動経路を固定し、必要に応じて警護員を配置する。しかし殿下がおっしゃった希望は、それとはまったく別です」

「分かっている」

「友人と自由に出かけたい。予定外の行動もしたい。一般学生として扱ってほしい。それを実現しながら安全も完全に確保しろというのは、少なくとも簡単ではありません」

 榊原はそこで言葉を切り、机の上の資料へ視線を落とした。

「現在でも、殿下が公式行事へ出席される際には事前の現地確認を行います。移動手段も決めます。同行者も把握します。それを大学生活では、毎日、状況の変化する場所で行わなければならない」

「若者は急に予定を変えるものらしいな」

「どうしてご存じなのですか」

「昨日、結月から聞いた」

 雅久は疲れた顔で答えた。

「講義のあとに友人と突然食事へ行くのも青春だそうだ」

「誰の定義でしょう」

「知らん。本人の中ではそうなっている」

 榊原が小さく息を吐いた。

 会議には他にも数人の職員が出席していたが、誰も会話へ割って入らない。ある意味では慣れているのだ。

 瑞穂宮家の父娘は似ていないようで、妙なところがよく似ている。

 一度「こうしたい」と決めると、なかなか曲げない。

「それから」

 雅久が続けた。

「身分については、できる限り伏せたいと言っている」

 今度こそ、榊原が目を閉じた。

「それは、何と申しますか」

「言うな」

「まだ何も」

「さらに面倒だと言いたいのだろう」

「はい」

 正直だった。

「偽名を使用するおつもりですか」

「そこまで具体的な話にはなっていない」

「仮に通称を使用するとしても、大学側の一部には事情を伝える必要があります。入学手続き、学籍管理、緊急時の対応、医療機関との連携もございます。完全に誰にも知られず、ということは不可能です」

「それも承知している」

「さらに、学生の中には殿下のお顔を存じ上げている者もいるでしょう」

「髪型や服装を変えれば、多少は印象が違うのではないか」

「殿下」

「何だ」

「その発言だけを聞くと、娘を変装させて遊びに行かせたい父親にしか聞こえません」

「私だって好きでこんな相談をしているわけではない」

 雅久は本気で困っていた。

 昨夜までなら、話を聞くだけ聞いて、翌朝には改めて不許可を伝えるつもりだった。

 しかし、できなかった。

 最後に結月が言った言葉が残っている。

『十年後に振り返ったとき、「あの頃、本当はやりたかった」と誰かのせいにする自分にはなりたくありません』

 父親にとっては、なかなか厄介な言葉だった。

 反抗なら叱れる。

 わがままなら退けられる。

 けれど娘が、自分の人生について初めて真正面から考え、その結果として何かを望んでいるのなら、最初から「駄目だ」で終わらせていいのか。

 それが分からなくなっていた。

「可能か不可能かではなく、可能にする場合に何が必要なのかを出してくれ」

 榊原が雅久を見る。

「本気でお考えですか」

「許可すると決めたわけではない」

「殿下はそうおっしゃるとき、大抵もう半分は許可されています」

「おまえまで結月と同じことを言うな」

「親子ですから」

「どういう意味だ」

「そのままの意味です」

 雅久はまた額を押さえた。

     ◇

 同じ頃。

 その会議の原因となった本人は、自室の机に座り、きわめて重要な資料を作成していた。

『一般大学へ通学することによって得られる社会的・教育的意義』

 題名だけを見れば立派である。

 中身も前半は立派だった。

 同世代との交流を通じて社会感覚を養う。

 多様な価値観に触れる。

 将来の公務へ還元する。

 国民生活への理解を深める。

 そこまではよかった。

 問題は、その下である。

『大学生活で経験すべきこと』

 一、友人と学食を利用する。

 二、自分で履修登録をする。

 三、大学祭へ参加する。

 四、サークル活動へ参加する。

 五、可能であればアルバイトを経験する。

 六、友人と試験勉強をする。

 七、放課後に寄り道をする。

 八——

「殿下」

 背後から声がした。

 結月は慌てて紙を伏せた。

「何でしょう」

 侍女の藤崎が、紅茶のカップを載せたトレーを持って立っている。

「今、何をお隠しになりましたか」

「何も」

「八番目に何か書こうとなさいませんでした?」

「気のせいです」

「では拝見しても?」

「いけません」

「やはり何かあるのですね」

「藤崎」

 結月は椅子ごと振り返り、やや不満そうに彼女を見上げた。

「最近、私の秘密へ踏み込むのが少々早くありませんか」

「十年以上お仕えしておりますと、殿下が秘密をお持ちになる瞬間くらい分かるようになります」

「その技能は別のことへ使ったほうがよいと思います」

「殿下がお相手ですので、最も有効に使われております」

 藤崎は平然としていた。

 結月は仕方なく、伏せた紙を手で押さえる。

 八番目に書こうとしたのは、

『恋愛をする』

 だった。

 さすがに資料へ入れる勇気はなかった。

「それより藤崎、お父様は今朝から何をなさっているのでしょう」

「会議でございます」

「どのような」

「私から申し上げることではございません」

「私の大学進学についてでしょう?」

「……どこでお知りに」

「今の間で分かりました」

「少しずつ雅久親王殿下に似てこられましたね」

「昨日、お父様も似たようなことをおっしゃいました」

「それは大変です」

「どういう意味ですか」

 藤崎は答えず、紅茶を机へ置いた。

 結月はカップを手にしたものの、気になって飲む気になれない。

「やはり、難しいのでしょうか」

 今度は少し声が落ちた。

 藤崎は結月を見る。

「殿下」

「はい」

「本当に通われたいのですね」

「はい」

「思い出作りがしたいだけではなく?」

 その問いには、結月もすぐ答えられなかった。

 思い出を作りたい気持ちはある。

 むしろかなりある。

 漫画やライトノベルで見てきた青春を、自分も経験してみたい。その願いは否定できない。

 けれど、それだけでもない。

「昨日、公務先で女の子に聞かれたのです」

「何をですか」

「大学へ行ったら、友達をたくさん作るのか、と」

 藤崎は黙って聞いている。

「その子には、当たり前のことなのでしょうね。大学へ行けば友達ができる。好きな人ができるかもしれない。授業を受けて、遊んで、悩んで。そういうことが自然に待っている」

 結月は紅茶へ視線を落とした。

「私は、そういう当たり前のことを羨ましいと思ってしまいました」

「羨ましいことは、悪いことではございませんよ」

「でも、私にはたくさんのものが与えられています」

「与えられている人間は、何かを望んではいけないのですか」

 思わぬ返答だった。

 結月が顔を上げると、藤崎はいつもの落ち着いた表情のままだった。

「藤崎は、反対しないのですか」

「私は警護担当ではございませんから」

「そういう逃げ方をするのですね」

「長く宮家におりますので」

 少しだけ笑ったあと、藤崎は続けた。

「ただ、殿下がご幼少の頃から、一つ気になっていたことはございます」

「何でしょう」

「殿下は、欲しいものを口にされませんでした」

 結月は瞬きをした。

「そのようなことは」

「ございましたよ。お菓子も、洋服も、玩具も、ご自分から欲しいとはほとんどおっしゃらなかった。『どちらになさいますか』と伺っても、『皆様がよいと思われるほうで』とお答えになることが多かったです」

「……そうでしたか」

「はい。お行儀のよいお子様でした」

「褒められている気がしません」

「半分は褒めております」

「残り半分は?」

「少し心配しておりました」

 藤崎はそこで優しい顔になった。

「ですから昨日、雅久親王殿下のお部屋から戻られた殿下が、あんなに嬉しそうになさっているのを見て、私は少し安心いたしました」

「見ていたのですか」

「廊下を小走りで戻ってこられましたので」

「小走りではありません」

「では、通常よりかなり速い徒歩でした」

「それです」

「スキップに近かったですが」

「藤崎」

「冗談です」

 絶対に冗談ではない。

 結月は頬を少し膨らませた。

 十九歳の内親王としてはあまり推奨されない顔だったが、藤崎の前では昔からこうだった。

「とはいえ、私が味方をしたからといって、簡単に大学へ通えるわけではございません」

「分かっています」

「SNSというものもございますし、今は誰でも写真を撮れます。たった一人に気づかれただけで、数時間後には大勢が知っている可能性があります」

「はい」

「自由が欲しいのであれば、その自由を守るために殿下ご自身も相当な不自由を受け入れなければならないと思います」

 結月は、その言葉をしばらく考えた。

 自由を守るための不自由。

 矛盾しているようで、きっとそうなのだろう。

「それでも、やってみたいです」

「では、そのお気持ちは資料にも書かれたほうがよろしいでしょう」

「資料?」

「先ほどからお作りになっているものです」

 結月は慌てて紙を見る。

「ただし」

「はい」

「八番目に恋愛を書くのは、おやめになったほうがよろしいかと」

 結月の手が止まった。

 ゆっくりと藤崎を見る。

「……見たのですか」

「まだ何も書いておられませんでしたので、見てはおりません」

「では、どうして」

「殿下の机にある漫画を存じておりますので」

「藤崎」

「はい」

「やはり私の秘密へ踏み込みすぎです」

「承知いたしました。今後は九番目あたりになさってください」

「そういう問題ではありません」

 藤崎は笑いを堪えながら部屋を出ていった。

 結月は一人になると、資料の八番目をじっと見つめた。

 そして、ペンを動かした。

『八、さまざまな人間関係を築き、同世代の価値観を知る』

「……嘘ではありません」

 少なくとも完全な嘘ではない。

 恋愛も人間関係の一つである。

     ◇

 夕食後、結月は両親から応接室へ呼ばれた。

 父だけでなく、母の遥子妃もいる。

 その時点で、何か話が進んだのだと分かった。

 遥子は四十代後半で、結月とよく似た穏やかな顔立ちをしている。ただし性格については、父より母のほうが数段したたかだと結月は思っていた。

「座りなさい」

 雅久に言われ、結月は二人の向かいへ腰を下ろした。

「大学の件だ」

「はい」

「今朝、警護担当者や職員と話をした」

 胸が高鳴る。

 しかし父の表情を見る限り、すんなりと「いいぞ」と言われる雰囲気ではない。

「結論から言えば、私はまだ反対だ」

 予想していたはずなのに、胸が沈んだ。

「理由を伺ってもよろしいでしょうか」

「昨日も話した。安全の問題が大きすぎる」

「はい」

「それに、身分を伏せるとなれば別の問題も出てくる。完全な偽名を用いることは難しいし、大学側にも事情を知る人間は必要になる。おまえが望むような『誰も知らない環境』を完全に作ることはできない」

「それでも構いません」

「最後まで聞きなさい」

「……はい」

 少し焦ってしまった。

 雅久が続ける。

「大学へ通うことだけなら、こちらで管理できる。しかし、おまえが望んでいるのはそれだけではないだろう」

 結月は父を見る。

「友人を作りたい。講義後にも付き合いたい。大学祭にも参加したい。アルバイトまでしたいらしいな」

「どうしてそこまで」

「昨日、おまえが全部言った」

「あ」

 そうだった。

「自分で言ったことくらい覚えておきなさい」

「申し訳ありません」

 母の遥子が横で笑っている。

「何がおかしい」

「あなたが娘と真面目に大学祭の相談をしているのが珍しくて」

「私は相談していない」

「反対しているの?」

「そう言っている」

「だったら、どうして朝から警護担当の方々を集めて、大学へ通わせる方法を話し合ったのかしら」

 雅久が黙った。

 結月は父を見た。

「お父様」

「遥子」

「だって、本当でしょう」

「余計なことを言わなくていい」

 夫婦の力関係というものは、公の肩書きだけでは測れない。

 結月はそれを幼い頃から知っている。

「完全に無理だとは思っていらっしゃらないのですね」

「だから、話を最後まで聞け」

 父の耳が少し赤い。

 結月は笑いそうになったが、今笑うと話が後退する気がして我慢した。

「条件がある」

「はい」

「まだ許可ではない」

「はい」

「嬉しそうな顔をするな」

「しておりません」

「している」

「続けてください」

 雅久は疑わしそうな顔をしたが、話を戻した。

「第一に、進学先の大学と正式に協議し、必要な範囲で協力してもらうこと。第二に、警護員は必ずつける。ただし、おまえが嫌がるのであれば、可能な範囲で目立たない方法を検討する」

「ありがとうございます」

「まだある」

「はい」

「行動範囲には制限を設ける。事前連絡なく遠方へ行くことは禁止する」

「友人から突然食事に誘われた場合は?」

「近隣で安全確認ができる場所なら、方法を考える」

 結月は目を輝かせた。

「それは、かなり前向きなのでは」

「条件の話だ」

「はい」

 父が少し苛立っている。自分が思った以上に折れていることを娘に気づかれたくないらしい。

「第三に、身分が発覚する可能性が高まった場合、通学方法を変更することがある。状況によっては、大学生活そのものを見直すこともある」

 これは重い条件だった。

 結月は少し考え、それでも頷いた。

「分かりました」

「簡単に返事をするな。友人ができてから突然通えなくなる可能性もあるという意味だ」

「それでもです」

「結月」

「何もしなければ、友人ができる可能性すらありません」

 父の目を見る。

「失うのが怖いから最初から持たない、という生き方はしたくありません」

 雅久は黙った。

 遥子が隣で、娘を見ながらわずかに微笑んだ。

「それから最後だ」

 雅久が言った。

「おまえ自身も、一般学生として生活するための訓練を受けること」

「訓練?」

 結月は首を傾げた。

「何をするのですか」

「私も詳しくは決めていないが、少なくとも世間知らずのまま大学へ放り込むわけにはいかない」

「世間知らず」

「違うと言えるか」

 結月は答えに詰まった。

 先日、コンビニエンスストアのセルフレジというものについて説明を受けた際、「店員の方がいないのに、どなたへお金を渡すのでしょう」と尋ねた記憶が蘇った。

「……多少、不慣れなことはあります」

「多少?」

「お父様」

 今度は母が口を挟んだ。

「あなたも結婚するまで洗濯機の使い方をご存じなかったでしょう」

「今は私の話ではない」

「初めて自分でコーヒーを淹れようとして、豆をそのままカップへ入れたことも」

「遥子」

「本当なのですか?」

 結月は思わず父を見た。

「昔の話だ」

「お父様にもそのような時代があったのですね」

「なぜ少し嬉しそうなんだ」

「親近感を覚えました」

「覚えなくていい」

 遥子は完全に楽しんでいた。

 雅久は咳払いを一つして、話を強引に戻した。

「ともかく、電車、買い物、飲食店、大学内での行動など、一般生活で必要になることをある程度覚えてもらう。それができなければ、どれほど外見を変えてもすぐ怪しまれる」

 結月は真剣に頷いた。

「分かりました」

「そして、その訓練を通じて、警護側も実際に可能かどうか判断する」

 そこまで聞いて、結月はようやく理解した。

 これはまだ許可ではない。

 けれど、不許可でもない。

 初めて道ができたのだ。

「お父様」

「何だ」

「ありがとうございます」

「礼を言うのはまだ早い」

「でも、考えてくださったのでしょう?」

 雅久は答えなかった。

 結月はその沈黙を、自分に都合よく受け取ることにした。

「私、頑張ります」

「先に言っておくが、大学へ行けると決まったわけではないからな」

「はい」

「なぜ笑っている」

「笑っておりません」

「笑っている」

「少しだけです」

 もう隠せなかった。

 結月は自分の頬が緩んでいくのを感じていた。

 遥子がそんな娘を見て、柔らかく言った。

「よかったわね」

「お母様」

「ただし、私からも一つ条件があります」

「何でしょう」

「普通の大学生になりたいなら、失敗することも覚えなさい」

 結月は意味が分からず、母を見る。

「失敗、ですか」

「あなたは小さい頃から、失敗しないように育てられてきたでしょう。失言しないように。誰かを不快にさせないように。転ばないように。間違えないように。でも、普通の友達同士なら、余計なことを言って喧嘩することもあるし、約束を忘れることもある。恥ずかしい勘違いだってするわ」

「はい」

「そういうときに、『私は失敗してはいけない人間だから』と逃げないこと。間違ったら謝る。困ったら人に頼る。それを覚えてきなさい」

 結月は、すぐには返事をしなかった。

 母の言葉が意外に重かった。

 確かに、自分は失敗を恐れている。

 公の場では、一つの不用意な言葉が大きく報じられることもある。

 だから、考えてから話す癖がついた。

 笑う場面も。

 返事も。

 振る舞いも。

 正解を探すようになった。

「……できるでしょうか」

 思わず本音が漏れた。

 遥子は笑った。

「それを確かめるために大学へ行きたいのでしょう?」

 結月も、少し遅れて笑った。

「そうでした」

     ◇

 その夜。

 結月はまた布団の上で紺色のノートを開いていた。

『大学生活で絶対にやりたい青春イベント百選』

 一ページ目。

『零、諦めずに大学へ行く』

 その横へ、小さな丸をつける。

 まだ達成ではない。

 けれど、昨日よりは確実に近づいた。

 次のページを開く。

『一、大学で友達を作る』

『二、友達と学食で昼食を食べる』

『三、講義後に寄り道する』

『四、大学祭へ参加する』

『五、サークルへ入る』

 ページをめくっていくと、自分でも呆れるほどたくさん書いてある。

 そして最後のほうに、

『七十九、好きな人から「会いたい」と言われる』

 という一文があった。

 結月はじっと見つめた。

「……これは少し、難易度が高いですね」

 十九年間、一度も恋人がいたことはない。

 それ以前に、自分の素性を知らない男性と、まともに世間話をした経験さえほとんどない。

 漫画の中では、大学へ入れば自然と何かが始まる。

 隣の席になったり、落とし物を拾ったり、同じサークルへ入ったり。

 あるいは入学初日、曲がり角でぶつかる。

 結月はそこで、ふと考えた。

「大学の近くには、曲がり角があるのでしょうか」

 真剣だった。

 もしあるなら、少し期待してもよいのではないか。

 もちろん、本当に誰かへぶつかれば危険だし、迷惑である。それくらいは分かっている。

 ただ、偶然の出会いというものを一度経験してみたかった。

 自分の肩書きを知った誰かが紹介されるのではなく、何の予定にも書かれていない人と会う。

「運命の出会い……」

 口にすると、急に恥ずかしくなった。

「いえ。別に恋愛だけが目的ではありませんから」

 誰も聞いていないのに弁解した。

 そのとき、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。

 弟の直希からメッセージだった。

『姉上、大学の件で父上と戦争したって本当?』

 結月は眉を寄せた。

『戦争などしていません。話し合いです』

 すぐに返ってくる。

『母上が「結月がついに反抗期になった」って楽しそうにしてた』

『反抗期ではありません』

『十九歳で反抗期は遅くない?』

『直希』

『ごめんなさい』

 反省しているとは思えない速さだった。

 続けて、もう一通届く。

『でも姉上が大学行けたら面白そう。普通の学生って設定なんでしょ? 絶対三日でバレると思う』

 結月はむっとした。

『どうしてですか』

『だって姉上、ファストフード店でトレー返す場所分からなかったじゃん』

『一度だけです』

『この前、コンビニでレジ袋いるか聞かれて「ご厚意に感謝します」って答えたじゃん』

 結月はスマートフォンを持ったまま固まった。

 あれは、いけなかったのだろうか。

『普通はなんと答えるのですか』

『「お願いします」か「大丈夫です」でいい』

『……なるほど』

『本当に大学行くの?』

 そこで、結月は少し考えた。

 そして打った。

『行きたいと思っています』

『友達作るため?』

『それもあります』

『彼氏?』

 結月の指が止まった。

 どうして家族というものは、皆そこへ話を持っていくのだろう。

『直希』

『はい』

『明日のおやつはいりませんね?』

『暴君』

『新刊漫画も不要ですね?』

 数秒の沈黙。

『申し訳ございませんでした、結月内親王殿下。姉上の大学生活が学問と友情に満ちた極めて健全なものとなることを心より祈念いたしております』

 結月は吹き出した。

 笑いながらスマートフォンを置く。

 大学へ行けば、こんなふうに自分をからかう人もいるのだろうか。

 自分の言葉遣いを笑う人。

 世間知らずを呆れる人。

 それでも翌日になれば普通に話しかけてくれる人。

 そんな相手ができたらいい。

 友達でも。

 あるいは、それ以上でも。

「まずは、大学へ入ることですね」

 ノートを閉じる。

 翌日から、結月の「普通の大学生になるための訓練」が始まる。

 このときの彼女は、それを礼儀作法の応用くらいに考えていた。

 電車に乗る。

 自分で買い物をする。

 飲食店へ入る。

 そう難しいことではないだろう、と。

 そして三日後。

 結月内親王は、人生で初めて一人でコンビニエンスストアへ入り、セルフレジの前で五分間完全に停止することになる。

 普通への道は、本人が思っているよりかなり険しかった。

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    第31話 これはデートなのでしょうか 水瀬結衣として大学へ通い始めてから、結月は数え切れないほど「初めて」を経験してきた。 初めて友人と学食で食事をした。 初めて大学生の男性と二人で昼食を取った。 初めてアルバイトをした。 初めて自分で得たお金で誰かに飲み物を奢った。 初めてプリクラを撮った。 初めて相合傘をした。 そのたびに緊張し、失敗し、思っていたものと違うと知り、それでも最後には「経験してよかった」と思ってきた。 だから今回も。 ただの新しい経験。 そう考えればよい。 はずだった。「……こちらでしょうか」 土曜日の朝。 結月は自室の姿見の前で、三着目のワンピースを身体へ当てていた。「いえ」 数秒考え。「少し気合いが入りすぎているような」 ベッドの上。 一着目。 二着目。 椅子の背。 候補から外したカーディガン。 机の上。 アクセサリーが二組。 普段の大学生活では考えられないほど、部屋が服で散らかっている。「……こちらのほうが自然でしょうか」 四着目。 薄い水色のブラウス。 白に近いベージュのロングスカート。「でも、大学でいつも着ているものとあまり変わりませんね」 それが良いのか。 悪いのか。 分からない。 結月はスマートフォンを見る。 昨夜。

  • 『身分を隠して大学デビューした内親王ですが、普通の恋が難しすぎます!』   第30話 これは恋ではありません、と言い切れなくなりました

    第30話 これは恋ではありません、と言い切れなくなりました 翌朝、結月は目を覚ますと、昨夜閉じたはずの紺色のノートをもう一度机の上へ置いた。 昨日、自分で書いた文章が気になって仕方がなかったからである。『高瀬さんも「分からない」』『私も「分からない」』『でも、二人とも相手が他の誰かと付き合うのは少し嫌』 そこまで書いてしまった。 しかも最後には、自分自身で「かなり分かりやすいのでは」とまで考えた。 朝になれば冷静になれるかもしれないと思ったのだが、残念ながら恋愛感情というものは一晩眠った程度では都合よく整理されてくれないらしい。「では、最初から確認しましょう」 誰に言うでもなく、結月は椅子へ座った。 机の上には、紺色のノート。 窓から差し込む朝の光。 そして、これから自分自身へ行う予定の、あまりにも個人的な検証。 公務なら資料の確認は得意だった。事実を並べ、状況を整理し、必要な結論を導く。曖昧な表現を避け、感情と事実を分けて考える。 ならば恋愛も同じように分析できるのではないか。 結月はそう考えた。 この時点で既に少し間違っていた。     ◇ 最初の記録。『昨日ぶつかった男。かなり失礼』 結月はその文章を見て、少し笑った。「これは間違っていませんね」 今でも失礼である。 そこは変わっていない。 さらにその下。『笑った顔は少しだけ悪くない』 結月は眉を寄せた。「……これは」 かなり初期。 まだ知り合って間もない頃。

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